シンガポールで月給5,000シンガポールドル(約58万円)の会社員が働くと、毎月1,850ドル ― 給料の37%相当が「CPF」という制度に積み立てられる。日本の感覚なら悲鳴が出る天引き率だ。ところがこれは税金ではない。1ドル残らず、本人名義の口座に貯まっていく。家を買うときに使い、医療費を払い、老後は終身年金に変わる。所得税は最高24%と軽いのに国民の資産形成が回る――その心臓部が、このCPF(中央積立基金)だ。仕組みと使い道、2025〜26年の大改革、そして日本の年金との決定的な違いを構造から読み解く。
先に結論。CPFとは、年金・住宅・医療をひとつに束ねた「強制貯蓄」制度だ。日本の年金が「いまの現役世代の保険料をいまの高齢者へ渡す」賦課方式なのに対し、CPFは自分の口座に自分の老後資金を積む積立方式。国は税や保険料で「集めて配る」かわりに、国民に「貯めさせて使わせる」。相続税ゼロや持ち家率9割のHDBと同じ、「税金で稼がない国」シンガポールの設計思想がここにも貫かれている。
CPFとは ― 3つの口座に自動で振り分けられる
CPF(Central Provident Fund=中央積立基金)は1955年創設。シンガポール国民と永住権者の給与から毎月天引きされ、用途別の3口座に自動配分される。口座ごとに使い道と金利が決められているのが特徴だ。
| 口座 | 主な使い道 | 金利(2026年Q1) | 配分(35歳以下) |
|---|---|---|---|
| OA(普通口座) | 住宅購入・教育・一部投資 | 年2.5% | 約62% |
| SA(特別口座) | 老後資金(55歳未満) | 年4.0% | 約16% |
| MA(医療口座) | 入院費・医療保険料 | 年4.0% | 約22% |
毎月いくら積むのか ― 「37%」の中身と天井
拠出率は55歳以下で本人20%+雇用主17%=合計37%。年齢とともに下がり、55〜60歳は34%、60〜65歳は25%、65〜70歳は16.5%となる(2026年1月時点)。対象となる月給には上限があり、2026年1月から月8,000ドルまで(年間では10万2,000ドル)に引き上げられた。月給5,000ドルの人なら、毎月の積立は本人1,000ドル+雇用主850ドルの計1,850ドル、年間2万2,200ドル(約260万円)。日本でいえば「月給58万円の人が毎月21万円強を自分の口座に積み立てる」計算で、10年勤めれば金利を除いた元本だけで22万ドル(約2,600万円)に達する。
何に使えるのか ― 家を買い、医療費を払い、老後は終身年金
CPFが日本の年金と決定的に違うのは、老後より前に「使う」場面が組み込まれていることだ。まずOAはHDB(公共住宅)購入の頭金とローン返済に充てられる。シンガポールの若い夫婦が現金をほとんど使わずに最初の家を買えるのは、CPFという「強制的に貯まった頭金」があるからだ。MAは入院費や国民医療保険MediShield Lifeの保険料に使われる。そして55歳でRA(退職口座)が作られ、65歳からはCPF LIFEという終身年金に変わる。2026年に55歳を迎える人が上限のERS(44万800ドル)まで積むと、65歳から毎月約3,180〜3,410ドル(約37万〜40万円)が生涯支払われる。
2025〜26年の大改革 ― SA廃止が意味するもの
この制度は静的ではない。2025年1月、55歳以上の約140万人のSA(特別口座)が一斉に閉鎖された。SA残高は退職基準額までRAへ移され、残りはOAへ。「流動性の高い口座に4%金利がつく状態」を整理し、老後資金はRAに一本化して長期金利で運用させる狙いだ。さらに2026年1月には賃金上限の引き上げ(7,400→8,000ドル)と、55〜65歳の拠出率引き上げが実施された。方向は一貫している。「より長く働き、より厚く積み、より長く受け取る」――高齢化に対して給付を絞るのではなく、積立を積み増す形で対応している。
日本の年金と何が決定的に違うのか
| シンガポールCPF | 日本の厚生年金 | |
|---|---|---|
| 方式 | 積立方式(自分の口座) | 賦課方式(世代間の仕送り) |
| 料率 | 37%(本人20+雇用主17) | 18.3%(本人9.15+会社9.15) |
| お金の行き先 | 自分名義の3口座 | いまの高齢者への給付 |
| 住宅への利用 | 可(OAで頭金・返済) | 不可 |
| 少子化の影響 | 受けにくい(自分の積立) | 直撃(支え手が減る) |
| 再分配機能 | 弱い(低所得者は別途補完) | あり(基礎年金など) |
日本の保険料は「いまの高齢者」に向かい、自分の将来給付は国の約束として残る。CPFは「未来の自分」に向かい、自分の残高として残る。少子高齢化で支え手が減る局面では、賦課方式は構造的に苦しく、積立方式は影響を受けにくい。シンガポールが人口550万の都市国家でこの制度を回せるのは、高い賃金水準と完全雇用に近い労働市場、そして強制力を徹底できる統治の産物でもある。
落とし穴 ― 「自分のお金」なのに自由に使えない
もっともCPFは万能ではない。第一に流動性がない。自分の資産なのに、住宅・医療・老後という指定用途以外では原則引き出せない(永住権・国籍を放棄して出国する場合は全額引き出せる)。第二にOAの2.5%という金利は、インフレ局面では実質リターンが薄い。第三に再分配機能が弱い。積めない低所得者の老後は積み上がらず、政府はWorkfareなどの補助制度で別途補完している。そして日本人には重要な実務ポイントがひとつ――EP(就労ビザ)で働く日本人駐在員はCPFの対象外で、本人も雇用主も拠出しない。「シンガポール勤務は手取りが大きい」と言われる理由の一つはここにある。
会計の目で見ると、日本の年金は「国の約束」=将来給付への請求権で、CPFは「自分の貸借対照表に載る資産」だ。どちらが安心かは、「国の約束」と「自分の残高」のどちらを信じるかという問いでもある。ただしタダの安心はない。CPFでは運用の物足りなさと、使えない縛り=流動性リスクを個人が引き受けている。制度設計とは結局、リスクを誰のバランスシートに置くかの選択なのだ。
所長・トナリ
よくある質問
日本人駐在員もCPFに加入するのですか?
しない。CPFはシンガポール国民と永住権者(PR)だけの制度で、EPなど就労ビザの外国人は本人も雇用主も拠出しない。そのぶん額面給与の交渉が実質的な手取り・福利厚生を左右するので、駐在条件を検討するときはこの構造を知っておくと役に立つ。
給料の37%も取られて生活は苦しくないのですか?
手取りが圧縮されるのは事実で、特に住宅ローンをOAで払う世帯は現金貯蓄が薄くなりがち。ただし37%のうち17%は雇用主負担であり、本人の天引きは20%。また所得税が最高24%(実効はさらに低い)と軽く、社会保険料が別途かかる日本と比べて総負担が一方的に重いわけではない。
CPFの金利は低くないですか?
OAの2.5%は最低保証で、市場金利に連動する見直しがある。またSA・MA・RAは4%で、残高の一定額までは追加金利(55歳未満は最初の6万ドルに+1%)が上乗せされる。元本保証つきの安全資産としては悪くない水準だが、株式の長期リターンには及ばない。だからこそ一定条件でOA資金を投資に回すCPFISという枠も用意されている。
家をCPFで買うと老後資金が減りませんか?
減る。そのためシンガポールでは、家の売却時にCPFから使った額と本来ついたはずの利息を口座に戻すルールがある。住宅と老後が同じ財布であることはCPFの強みであり弱みでもあり、「家を買いすぎると老後が痩せる」構造は制度設計にそのまま埋め込まれている。
一次資料・参考
- CPF Board(公式): CPF Overview / Contribution Rates from 1 January 2026 / Closure of Special Account
- シンガポール人材開発省(MOM)関連資料
- 野村資本市場研究所「長寿リスク対応を進めるシンガポールの年金制度」
- 経済産業省 医療国際展開カントリーレポート(シンガポール・CPF)
※本記事は制度の構造解説であり、特定の投資・移住・節税を勧めるものではありません。数値は2026年時点の公表情報にもとづく概算を含みます。実際の判断にあたっては最新の公式情報と専門家の確認を必ず経てください。
